「俺がブラッドを嫌いになるような事があったら直ぐに殺してくれよな」
自室にて書類をテンポ良く(良過ぎて本当にちゃんと見ているのか疑うような速さで)処理していたマフィアのボスが、ペンを動かす手を止める事無く、目だけを口を開いた男、エリオット=マーチに向けた。先程までは仕事の報告を述べていた口が、一体どんな意図を持ちその言葉を吐いたのか、興味深さと半場の呆れのような物を抱きながらボス、ブラッドは彼の言葉を脳内で繰り返す。勿論、書類を走る手は止まる事無く、時折その目は文面へと移った。しかし何も言う事は無く、唇はただ面白そうに弧を描くのみだった。エリオットの表情は、報告の時と変わらず。それどころかその時よりも真剣で、切実そうだった。懇願するような、そんな。
「なぁ、ブラッド。聞いてるか?」
「嗚呼、勿論だとも。それで?御前は、自分が私を嫌いになるような事があると思っているのか?」
苛々したように金色の豊富な髪を掻き回す。其の度にうねり太陽の輝きを受ける髪が美しいと口にはしない物のブラッドは見惚れてしまう。昼間等大嫌いではあるものの昼間を思い出させるその金色は嫌いでは無い。というか拒めないのだが。金色に奪われて何も言わないブラッドに対して痺れを切らしたのか焦りが混じったような口調で彼は問うた。すると次は間が開くことも無く、楽しそうな口調で返事が返された。随分と自信過剰に聞こえる台詞も彼とブラッドの関係を知るものなら納得いくだろう。彼は異常とも言って良いほどにブラッドを敬愛し崇拝していた。時に気持ち悪いと思える程ブラッドを讃えている彼を何度見た事かしれない。この二人を知る者なら誰でも口を揃えていう事だろう、「そんなエリオットは想像が付かない」と。ブラッド本人も彼に異常と云う位に慕われている事を知っている。それでもその中に歪んだ物が無いとは言い切れない事をブラッドは理解していた。この国でそんなただ綺麗なだけの感情は、無い。
用はただ、殺されたいだけ。
呼び寄せるべくした手招きに素直に応じて立ち上がった彼は椅子に腰掛けるブラッドの傍まで来ると、背を曲げて彼の体に手を伸ばした。ブラッドの全身から漂う甘い香りに酔いそうになりながらもその背中を包んだ。否、もうとっくに彼は酔っていた。酔いつぶれていた。赤き薔薇と紅茶の薫りに。酔って酔って、他の匂いなんて感じる隙間もない位に酔って。こんな良い薫りに酔ってしまったのなら他の何に酔うと言うのだろう。嫌いになるなんて、そんな事ある筈が無い。この時計が止まるその時まで、この薫りに酔っていたいと今も願っている位なのだから。
ブラッドはと云うと、自分を包み込む嗅ぎ飽きた人参の香りに眉を寄せつつ、彼から離れようとはしなかった。目の前に広がる金色の眩しさに、心を奪われるばかり。決して其れを悟らせるような真似はしないが、ブラッド自身も其れを自覚していた。逃げられない、と。彼が紅茶と薔薇の入り混じった薫りに酔いしれているように、不服ながらも人参の薫りのする彼に酔ってしまっていた。それはもう、毒のように侵食し続けるのだ。
「御前がそう言うなら。―その時は殺してやろう」
悩んでいるのか口を開かない彼に、ブラッドは笑いながら言った。この手で赤に染まった金色を見るのも悪く無い、だがしかし。言葉とは裏腹に、ブラッドは彼を殺す気等微塵も無かった。願わくば嫌いになったその瞬間、自分を殺して欲しいと、全く逆の事を。金色と人参の薫りに包まれながら、ブラッドは思い、そしてその金色にくちづけをした。無論、彼には気付かれないように。
(私を嫌いになった御前が、真っ先に殺すのが私なら、其れはとても幸福な事だと思うのだよ)
願いは交わる事も無く
(070520)