唇は何故だかとても甘くて甘くて仕方が無かった。奪われた彼も奪った彼も甘い物なんて好んでいないのに、如何してこんなに甘い味がするのだろうか。しかしこの場合彼の甘い味、と云う物が世間一般で云う甘い味と同じ物であるのかどうかは判らない。何故なら前述の通り彼は甘い物を好んで食す事等しないからである。甘い物が本当に甘いのか、其れは実際に感じでみない事には分かりようが無い。しかし兎に角、彼はこの瞬間甘いと感じた。こんなに甘い物を彼は食べた事が無かった。

「……気持ち悪い」

慣れない甘さが気持ち悪くて思わず呟いた途端、拳に突撃された。思わず離れた唇、伸びる糸。目の前の男の表情は今まで見せた事もないような物で。見た事が無いものにどう対処すればいいのか判らない。怒るだの、いつものように死ね消えろと言われる方が彼にとっては良かった。それならばどうするば良いのか分かっている、決まっている。どんな表情をして何を彼に言えばいいのか、簡単だった。けれどそんな表情に対する対応は、知らない。真っ赤な瞳は憎しみを表す事も怒りを表す事も無くただ閉じられて、糸を拭う訳でも無く唇からは溜息が。そんな目の前の男の様子は、彼の知らない物。非常事態を告げられたように頭の中はフル回転で答えを導き出そうとするも、冷たい沈黙が辺りを包んでしまった。

彼は笑うでも誤魔化すでも無く、素のままの表情が顔を出していた。無表情、とも言うべきだろうがそれでも笑っている彼に比べれば表情と云うものがあるように思えた。張り付いて剥がれなかった仮面は案外と単純な事で起きてしまった。

「…なんで、そんな顔するんだ?俺は、どうしたら良い?どうして欲しい?」
「は?…あの、ですね。貴方、自分が何言ってたか分かってます?」
「俺さ、ペーターさんと違って愚鈍な騎士だからさ、判らないんだ。如何してか、教えて欲しいんだよ。ね、賢いペーターさんなら知ってるだろ」

言葉により立場は一転。顔に落ちた影は困惑へと変わってしまう。笑みを浮かべながらもその笑みは不自然。向かいの彼にした所でその表情は見た事が無い物で、二人揃って不自然な表情になっている。この様子を見たものがいたなら、自分の眼を疑う事だろう。二人揃って似合わない、それで居て真の人間のような。
伸びたままの拳は力無く落ちて、瞬きを繰り返しては彼を見る。先ほどまでの怒りも忘れてしまったかのように、不可解だと云わんばかりの表情を浮かべては言葉を捜して口を開く。頭を掻いて茶色の髪を揺らしながら、首を傾げたまま彼は黙る。今までに無い事態と、心に、不思議がって彼は何をしたらいいのかが判らない。


「…………気持ち悪いって、何の事です」
「へ…?………ああ、ペーターさんとのキスが、甘くて気持ち悪いなって」


沈黙を打ち破るのは渋々口を開いた声。遠回しに聞くのが面倒なのか、それとも言葉の意味が気になっていたのか。一瞬何を言われたのだろうと言った表情を見せるも、すぐに返答する。其れが何か問題があるのかい、と顔で語りながら。しかし急に眉根を寄せ、明らかに不機嫌である事が判る顔に、再び首を傾げる。

「甘いのが気持ち悪いんだよ。だってキスってこんな味はしないだろう?」
「…本当ですか?僕とのキスが気持ち悪い訳ではなく?」
「ははっ、ペーターさんとのキスは、凄い幸せだよ。俺には勿体無い位、幸せだ」

顔を見れば本当にその通りだと誰もが思う位に、笑う。笑顔と云う名前を仮面では無く、本当の笑み。太陽が咲いたような其れに不機嫌だった男は言葉も失った。実際何かを言おうと、言う言葉も無いのに口を開き、酸素を求めるように開閉を繰り返す。確かにある筈の酸素がそこに無くなってしまった。そんな己に気付いては口を手で覆う。戸惑うのは彼も同じ。けれどこの状況をより理解しているのは男の方であった。彼は全てが分からなかった。今まで生きてきた中で、それは男にも彼にも経験が無かった事象であり感情であるのは確かだが、でも男は知っていて、彼は知らなかった。だから笑みを貼り付けたまま、ただ男を見つめる事しか出来ない。

口に当てた手を離し、壁に体を預ければ、天井に向かって男は諦めの溜息を吐く。暫しの間、そして男は彼に顔を向けて、笑う。ふわりと、溶けてしまう位に。如何して、とまた一つ彼の中に疑問が浮かぶ。先程までは哀しそうな、そして次には傷付いたような、今度は如何して、嬉しそうに笑うのか、彼には理解事ばかりでけれど見ただけで幸せになってしまう笑みに、黙り込んでただ呆然と見つめる事しか出来ない。未知の世界にでも来てしまったのかと考えてしまう程、沢山の理解不能が駆け巡る。知らない事ばかり判らない事ばかり、それでも良かった筈なのに、如何してか理由を知りたいと思った。キスの味が、蘇る。










The world changes from a kiss


















(080310)